Sample:水のゆくえ 「立葵 梅雨が明ける」



 銀の糸のような細い雨が降り続いていた。
 都の景色は色彩を失くしたかのように灰色に曇り、小雨の向こうでぼんやりと薄霧に霞んでいる。普段は鮮やかな色の社殿や鳥居の朱も褪せていた。
 白花神社本殿の軒下を借りながら、水央(みお)は曇った空を見上げた。雨は当たらないが、せり出した神社の屋根から落ちる雨垂れが跳ねて足元が僅かに濡れる。
 人を待つのは性に合わない。参拝でもして待とうかと思ったが、傘がないので雨の下に出る気にもならない。濡れ鼠ではお参りする神にも礼を欠く。朝は雨が降っていなかったし、傘を差して出歩くのが邪魔だから家に置いてきたのだが、暇を持て余すくらいなら持ってくるのだった。
 今年は六月に入っても空梅雨で蒸し暑くなるばかりだったのだが、空は突然季節を思い出したように厚い雨雲で覆われ、ここ数日雨を降らせ続けていた。
 雨は、あまり好きではない。
 じめじめしていて鬱陶しいし、曇りと雨ばかりで外出もしにくくなる。外に出ることが好きな水央にとっては、耐えられないくらい嫌な季節だった。
 神社にはぽつぽつと参拝者の姿が見える。皆一様に傘を差し、恭しく本殿にお参りしていた。
 参拝が終わった人々は、社を囲む池に咲く、白菖蒲や白睡蓮にも手を合わせている。
 神社の境内は梅雨ですっかり薄灰色に褪せているのに、草木だけはその緑を一層冴えさせているようだった。花も雨に洗われて、その色彩を増しているように見えた。
 菖蒲の花の、やけに鮮やかな紫や白。
 とうの昔に過ぎ去ったはずの声が、水央の頭の中でふと響いた。

 ――それ、本当のことなの?
 ――本当よ。時雨(しぐれ)様が話しているのを聞いたんだから。
 ひそひそと交わされる言葉が、雨のように水央の頭上に降ってくる。
 ――嫁がれて、すぐのことだったって。
 ――おいたわしいこと。

「――水央」
 間近で聞こえた声に我に帰り、水央は過去の声を頭から追い払った。
 目の前には薄紫色の唐傘を差して立つ友人の姿があった。
 友人は白い着流しに濃緑の羽織姿という出で立ちで、少しの乱れもない装いにはどこか気品のようなものを感じさせる。
 友人は傘紙を少し上げ、傘で隠れていた顔を水央と合わせた。
 待ち人は不機嫌そうに眉を寄せながらこちらを睨んでいる。
 「急に人を呼びつけたかと思えば、呆然と馬鹿みたいに突っ立って……。何度声をかけたと思っているの」
 低い声色で怒る友人を間近で改めて見た。髪と瞳は森の色に似た深い緑青で、高く結い上げた長い髪に、白い蓮の花簪を挿している。
 顔立ちの整った美青年である。線が細く色白という中性的な容姿は、男と分かっていても見惚れてしまう。思わず溜息が出るほど端麗な容姿なのだった。だが、その容姿に浮かべる表情はいつも不機嫌そうだ。冷たい双眸はいつも他者を射竦めるような鋭さがあるのだが、時折物憂げに見えるときもあった。
 水央は友人を前に苦笑する。
「……悪い常盤(ときわ)。ちょっとぼうっとしてたんだ」
 常盤は無言のまま、水央に傘を差しかけた。入れということらしい。
 社の軒下で待っていた水央が傘を持っていないと察したのだろう。女の子とならともかく、男と一緒の傘に入るのは少々気が引けたが、ずぶ濡れのまま歩き回るわけにもいかないので入ることにする。
 常盤は水央が濡れないよう傘を持ち、おもむろに歩き出す。濡れそぼった神社の境内の砂利が音を立てた。
「……家のことは、いいの?」
 水央の心の奥底で、菖蒲の花が揺れた。
そよそよと、悲しみや不安を掻き立てるように揺れて、暗く淀んだ苦痛がじわりと胸を満たした。
「……ああ」
 水央は何も覚られないように笑顔を作る。
 友人の前で暗い顔をするのは嫌だった。嘘を吐くように笑顔を作るのも、今となっては慣れた行為だ。
「今は、家臣たちが花守の仕事をしてくれているよ。しばらくの間は、休んでこいって言ってた」
「そう」
 歩きながら、素気無く答える常盤。
 濡れないよう彼に並んで歩いていた水央は、詳しく何も訊かれなかったことにほっとした。
 しばらく黙って歩いていると、常盤が口を開いた。
「……なら今日は、うちに来るといい」
「お前の家……?」
「何なら泊まっていってもいい。娘たちも喜ぶ」
 水央はまじまじと常盤の横顔を見た。
「お前がそんなこと言うなんて、雨は……、もう降ってるな」
 冗談めかしながら真顔で言うと、常盤は射殺さんばかりの凶悪な目線で水央を貫いた。
「何が言いたいんだ、お前は」
「いや、お前が俺を屋敷に呼ぶの、初めてだと思ってさ」
「――? うちには以前来たことあるだろう?」
 そう彼は眉根を寄せる。確かに一度、常盤の屋敷には行ったことがある。初めて森に入ったときに水央が怪我をして、その手当てのために仕方なく休む場所として屋敷を提供してくれたのだ。常盤の方から「うちに来い」と言われるのは初めてだという意味だったのだが、彼はそう取らなかったらしい。不思議そうな顔をしている常盤を、水央は可笑しいと思う。
「いや、初めてだと思うぜ」
 常盤はまだ納得がいっていないらしく、小首を傾げていた。
 それにしても、妙だ。常盤はわざわざ人を屋敷に招いてもてなすような男ではない。今日だって白鷹に頼んで遣いを出し、暇だから会おうと水央が呼びつけたのだ。水央が呼ばなければ、彼が水央に会いに来ることはあまりない。
 そんな彼が「うちに来い」と言い出したのは、やはり水央の心中を見透かしているのだろうか。
 頭を掻きながら常盤をちらと目を向けると、彼はいつも通りの不機嫌そうな面持ちになって前を見ていた。

     *

 水源豊かなこの地を、人々は古清水(こしみず)と呼んでいる。
 水の恩恵で豊かな自然が育まれた、水と緑の美しい土地である。森と海に囲われ、幾筋も流れる川に潤う実りの深い場所だった。
 古清水には小さいながらも都があり、人や動物がともに暮らしている。自然の恩恵に感謝しながら自然とともに暮らす。それがこの地に生きる人々の美徳だった。
 人はこの地のあちこちに咲く白い花を塞ノ神として大切に扱っている。白い花は根を張る場所に住む命を守ってくれる土地神なのである。
 その土地神は、四聖天(しせいてん)という四柱の神が統べているとされている。
 四聖天は古清水の守護神であり、豊穣や生死をもたらす神として信仰を集めていた。
 常盤は、その四聖天のうちのひとりである。
 白蓮(はくれん)という異名を持つ豊穣神で、この地の主神である。一見は普通の人間と変わらないが、名の通りの白い蓮の化身で、塞ノ神たちを束ねてこの地を守る神そのひとである。
 水央はこの春に常盤と縁を持ち、それからというものよく会うようになった。
 水央はどんな者に対しても気後れしないで話す性質である。そのためか、神と知っても常盤とは気安く接した。元来礼を取るべき神への振る舞いとしては相応しくないのだが、常盤は水央の振る舞いを咎めはしなかった。以来、お互いに友人と認める間柄になり、その付き合いはそれからずっと続いている。





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