Sample:水のゆくえ 「桜 花の下にて」



 その日、父の時雨は珍しく宮廷に呼ばれていた。
 供も数人連れていってしまったので、今日は水央(みお)が花守を手伝っていた。水央も花守の武家の子。いくら父親と折り合いが悪かろうと、その仕事はいつもちゃんと手伝っていた。
 白桜の花守は、時雨を中心に一族郎党全員で行っている。塞ノ神の守りは無人にしないよう、昼も夜も交代で行うようにしていた。そのため、水央も一日中とはいかずとも、ひと月の間に数えきれないくらい花守を務めていた。時雨ほどずっと白桜の傍にいるわけでもないし、自由時間も多かった。その間は都の中を自由に遊んで回ることもできる。
 白桜の守りは、はっきり言って退屈だった。
 じっとしていることが苦手な水央は、白桜の傍で警護など退屈で仕方なかった。いつもは気を利かせた一族の者が鍛錬をつけてくれたり話し相手になってくれたりするのだが、この日に限って水央はひとりだった。
 一族の者が流行り風邪に倒れてしまい、花守を務められる者がいなかったのだ。時雨は帝に呼び出されており、手の空いていた水央が仕方なく、臨時で白桜の守りをしていた。
「あー……、暇だ……」
 暇も暇。今日は珍しく夜の務めだった。
 月明かりのおかげであまり暗くはないが、鍛錬の次に暇潰しにしている、都を見渡して眺めることもできやしない。
 一度呟いてみたが、答えるのは夜の静寂ばかり。
 ひとりの鍛錬だとできることは限られるし、何より今から動き回ってしまうと眠くなりそうだった。
 普段はあまり夜の務めを任せられることはないので、夜はいつも普通に家で寝ている。だから慣れない夜の花守はそのうち眠くなりそうで怖かった。
「…………何か、ねえかな……」
 まだ眠たくはないが、呆然と白桜の前に座っているだけではそのうちに眠ってしまいそうな気がして、口を動かすことにしてみた。
「……そういや、もう少しで春祭りだな」
 古清水の地には祭りが多い。
 塞ノ神に手を合わせ、四聖天(しせいてん)を祀る古清水(こしみず)において、神は手の届かない存在だが身近な存在でもあった。神を大切にしている古清水では、年に何度も神に感謝を捧げ、そして恩恵を祈る。それが祭りとして表れていた。
 祈年祭は終わったばかりなのだが、数日後には春祭りを控えている。四季に行われる祭りは、それぞれの季節を司る四聖天へ感謝を捧げる祭りだった。春祭りは春の神である白蓮(はくれん)に感謝する祭りである。
「最近都で風邪が流行ってるから、春祭りをすれば四聖天白蓮が病を祓ってくれるかもしれねえな」
 祭りのときは都中で祭囃子が鳴り、露店や白花神社への参拝者で都はいつもより賑やかになる。
 水央は祭りが好きなので、いつどんな祭りでも必ず遊びに行く。神への信仰心が強いというよりも、賑やかな祭りの喧騒や祭りの雰囲気が好きというのが大半の理由であるから、動機は少し不純なのだが。
「今年の春祭り、花守にならねえといいな……」
 花守の仕事は、この一族の人間として仕方がないことだと思っている。しかし、祭りに行けなくなるかもしれないと思うと少々癪だった。
 今まで、祭りの日は子供だった水央を思って周りの者が花守を引き受けてくれていた。長じるにつれ、当たり前に楽しんでいた祭りが周囲の働きかけによるものだということを知った。
 だから水央は、これから祭りに行けない日がきても仕方がないと思うようになった。できたら行きたいことに変わりはないが、いつまでも子供ではいられない。それに、こんな自分のために誰かが損をするのは嫌だった。
 母親を食い破るように生まれてきた自分なんて、誰かを押しのけてまで幸せにならなくてもいい。
 水央は白桜の大木を見上げる。
 真っ白な枝垂れ桜は、月の光を纏い、宵闇の中でうっすらと輝きを放っていた。青空の下で晴れやかに咲き誇る桜も美しいが、夜桜も格別に美しかった。白い花びらが、雪のように舞い落ちてくる。
 夜風に涼みながら、水央は月を背に立つ枝垂れ桜に近付いた。こんなに近くでこの大桜を見ることは、花守の武家にしかできない。この丘の辺りは誰も立ち入ることが許されていないため、この桜を特等席で眺められる者は限られる。
 長く枝垂れた枝が淡い風に揺れ、桜の花びらが一斉に落ちてきた。視界が花に埋め尽くされるかのようだ。
「………………」
 風に混じって、何かが動くような気配を感じた。
 水央は弾け飛ぶように駆け出し、桜の裏側へ回り込む。
 月の光を浴びた色白の肌に、森の色をした緑の瞳と目が合った。同じ色をした長い髪をひとつに結い上げ、白い着流しの上に濃緑の羽織姿をした青年が立っていた。線の細い、中性的な容貌。驚いた様子でもなく、男は鋭い眼差しで水央を捉えている。端麗な顔立ちに、舞い散る桜の花びらが照り映えて、とても綺麗だった。
 水央は一瞬呆然として、しかしすぐに、小太刀の柄に手をかけた。
「……どこから入った? 白桜に何する気だ?」
 白桜の前に立つ異人は警戒する水央をじっと見つめたまま、口を閉ざしている。人目を引く美青年だが、表情からは感情が抜け落ちてしまっていて何を考えているか分からない。
 水央は刀をすぐに引き抜けるように柄を握る。手のひらが汗ばむ。男は興味を失くしたように水央から視線を逸らして白桜を見上げた。水央は刀を抜いて再び声を発する。
「……お前、白桜に何の用なんだ?」
 水央が尋ねると、男はちらとこちらへ目線だけを寄越した。
「……様子を見に」
 淡々とした低い声色が桜の花びらとともに流れ落ちた。
「……白桜の守りが手薄なのは今夜だけだ」
「で、お前守りが手薄な日に何か変なこと企んでねえよな? 様子見って何なんだ? 一応俺はここの花守の子だ。何かするなら相手になるぜ」
 言いながら、ふと男の髪飾りに目が留まった。
 真っ白な蓮の花の髪飾り。人間とは思えないくらい整った顔立ち。どこからともなく現れた男。
(こいつ、ひょっとして……)
 水央は刀を彼に向けたまま言う。
「……お前、もしかして、四聖天白蓮か? 様子見って、しもべの塞ノ神を見に来たってことか?」
 すると男は不敵に笑った。
「人の身にしてはあまり馬鹿ではないようだね」
 馬鹿にされているのか褒められているのか微妙なところである。水央は刀を鞘に収めた。
「これくらいなら、誰だって想像つくだろ? 白い蓮の花簪なんて、皇族だってつけられないんだ。そいつをつける奴なんて、この世に一人しかいねえよ」
 水央も笑った。水央は相手がどんな者でも臆するような性質ではないので、誰にでも普通に、気安く話してしまう。
 四聖天白蓮はまた元の無表情に戻った。
 それにしても、この地の主神である四聖天白蓮が今目の前にいるとは、俄かには信じがたい。だが、この人離れした容貌の青年がただの人ではないことは最初から何となく分かっていた。
 白蓮が口を開く。
「……お前、名は?」
「水央。鎮守の花守の武家、時雨の一子だ。お前は?」
 水央は尋ね返す。
 白蓮はじっと水央を見つめ、その様子を窺っている。無言のそれは、まるで水央を見定めるような視線だった。
 夜の静寂を、降ってくる桜の花びらが埋める。
「――常盤」
 彼から発されたその名前を、水央は心の中で噛みしめた。
 常盤。永遠に枯れない緑色の名だ。
 水央は笑った。
「よろしくな、常盤」
 常盤は無表情のまま、口を開かずにいる。口数の多い方ではないから、何も言わないところを見ると特に否定はないだろうと水央はあたりをつけた。
 常盤は白桜に向き直り、その両の手のひらを大木の幹に当てた。
 水央は彼に近付いた。
「……何してるんだ?」
 訊いてみたが、彼は無視して白桜に手を当てている。しばらくそうしていたが、常盤は唐突に水央へ顔を向けた。
「少し離れていた方がいい」
「何でだ?」
 彼はそれ以上は何も言わず、黙って桜へ向き直った。
 よく分からないが、神さまが塞ノ神に何か変なことをするとは思えない。水央は言われた通りに少し白桜から離れた。
 常盤は白桜へ向けて何か呟いたようだが、ここからでは何を言ったのか聞こえない。
 途端に、白桜を中心に突風が四方へ吹き渡った。
 水央は思わず腕を掲げて顔を庇うが、風が一気に吹き抜けて一瞬息ができなくなった。
 風とともに桜の花びらが吹き飛んでいく。
 前方を確認すると、白桜の前では常盤が何かを唱え続けている。水でも掬うかのように広げた手のひらの上には、真っ白な蓮が大輪の花を開き、淡く光っていた。
 白桜は眩い光を帯びながら、枝葉を広げ満開の花で夜空を染め上げている。白い枝垂れ桜が風に吹かれて、その花びらを都中に舞わせていた。
「…………」
 風が止んだ頃には、白桜は元の普通の桜に戻っていた。白桜は月光にひらめいて、散った白い花びらが都中に降り注いでいる。
 何となくだが、空気が変わったような気がした。何も変わっていないはずなのに、空気がより澄んだような、そんな感覚をふと覚えた。
 水央は白桜の前に佇む常盤へ駆け寄った。
「今のは一体何なんだ?」
 常盤は風に乱れた髪を手櫛で軽く直していた。水央が近付くと、常盤は懐から絵馬を取り出した。白花神社のものだ。水央が覗き込むと、「流行り風邪が収まりますように」という旨の願い事が記されていた。
「最近この手の願い事が多かったから……。鎮守の白桜の力を借りて、都から病を祓った」
 常盤は都中に散る白桜の花びらを見渡した。
「神さまって、本当に何でもできるんだな……」
 水央は驚きながらも、本当に常盤は四聖天なのだと実感した。白桜で病を祓ったことももちろんそうだが、祓っている間、彼は真っ白な蓮の花に囲われていたのだ。
「これは都の鎮守。この桜の木がある限りは、あらゆる災厄が祓われる。……花守は、真面目に務めることだ」
 常盤はそう言いながら腕を組んだ。
「そんなことくらい、分かってるよ」
 頷く水央に、常盤は疑わしい視線を向けてくる。
「そのわりには、暇だとか、春祭りのことだとかを考えていたようだけど?」
「お前、そんなところから聞いてたのかよ!」
 まったく、いつからここにいたのだろう。見れば、常盤は口元に手を当てている。手に隠れた口元が僅かに笑んでいるのを水央は見逃さなかった。
 思ったよりも、親しみやすい奴なのかもしれない。





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