sample:カンテラを灯す夜 「海に溺れる」



 これはどこまでも青い、冷たい海の中でのお話です。
 深さも知れない広大な海の、その真ん中に男の子がいました。広い海の中にぽつんと浮いて、そしてひとりで下へと沈み続けています。
 男の子は、気の遠くなるような時間をひどくゆっくり沈み続けているので、男の子も一体どれくらい長い時間を沈み続けているのか、わからなくなっていました。あまりにも長い間沈み続けている男の子は、いつから沈んでいるのかさえ、もうわかりません。男の子はただ海の底へ向かって沈み続けています。
 いつ終わりがくるのか、いえ、終わり自体くるのかもわかりません。深い海の底がどうなっているのか、深さはどれくらいあるのか男の子は知らないのですから。海の底に辿り着くのは一体いつになるのか、男の子は想像することしかできませんでした。

 男の子はどうして沈んでしまったのでしょう。
それには、少し悲しい出来事がありました。
男の子は昔、地上で暮らしていました。海辺にある小さな村で、何不自由なく健やかに育ちました。そこは海が美しいことで知られる村で、毎年多くの船でたくさんの人が村に訪れていました。朝焼けや夕焼けに海が染まる様子や、晴れやかな青い空と同じ色に輝く様子は、住む人にも訪れる人にも感動を与えていました。
そんなある夏の日。村を、それは大きな嵐が襲いました。激しい雨と強い風にのみ込まれ、男の子の住む小さな村はあっという間になくなってしまったのです。家の柱はみんな折れ、屋根は吹き飛び、嵩を増して荒れ狂う波と雨が村を覆い尽くしました。村はひとたまりもなく、民家や他の村人たちと一緒に、男の子も海にのみ込まれてしまいました。
男の子はそれからずっと、海の中を沈み続けているのです。はじめは腕を伸ばせば届きそうだった海面も、今ではすっかり遠ざかってしまいました。
周りでは、屋根に使っていた藁や家の柱だった木も沈んでいました。村の守り神だった二対の犬の石像も、守るものをなくして沈んでいきます。そのまま錆びるように海の底で朽ちていくのでしょう。
 男の子は、最初こそ海面へ上がろうとしていました。
 嵐によって海へと落とされたことを、男の子は認めようとしませんでした。腕を伸ばし、海中で足を蹴って何とか海面へ出ようとしました。海から出れば、男の子は村へ帰れると思っていたのです。何もかも沈んでしまったなんて嘘だと、また地上へ出れば、大好きだった父さんや母さん、姉さんにもまた会えると思っていました。横で沈んでいくものを見ないようにしながら、男の子は会いたい人の名前を呼びました。けれどどれだけ叫んでも海の中ですから、声はどこにも届きません。
 男の子がどんなに海面へ上がろうと努力しても、重力に引っ張られるように、身体はどんどん沈んでいきました。泳ぎが得意だったはずなのに、どんなにもがいても少しも上へ行くことはできません。
 男の子は、腕を伸ばしながら必死に叫び続けました。
 けれど音のない海の中では、何もかもがただ沈んでしまうのです。

 男の子が沈みはじめてから、一体どれくらいの時間が経ったのでしょう。男の子はもう、足掻くことはやめました。気が付いたら、腕を伸ばすことをやめていました。どれだけがんばっても上へは行けないのですから、男の子が諦めてしまうのも無理はありません。
 沈むことしかできない男の子は、海の中を自由に泳ぐ魚を羨ましいと思いました。男の子は沈んだまま動くこともできないのに、海の中にいる生き物たちは好きな方向へ泳ぎ回ることができるのです。男の子は次に生まれ変わるのなら魚がいいと思いました。
 男の子が沈むにつれ、海の青さは濃くなり、少しずつ周りが暗くなりはじめていました。男の子はいよいよ終わりがきたのだと思いました。沈み終えたらまた駆け回ったり自由に泳いだりすることができると、男の子は期待に胸を膨らませていました。けれど男の子は、海の底のもっと深くに、光も届かない深海があるとはまだ知りません。男の子は沈みながら、自由になったらどこを泳ぐか、今から夢想していました。

 けれど、男の子は知りませんでした。
 男の子はあの嵐の日に、他の人と一緒に死んでいたのです。

 男の子はそれを知らずに、ひたすら沈み続けていました。自分はまだ生きていて、海の中を沈み続けている。そういう夢を、男の子は死んだままずっと見続けているのです。珊瑚の褥に抱かれ、海の底で永遠に眠る男の子は、きっと今も夢の中で沈み続けているのでしょう。
 死の淵に引きずり込まれるように沈んでいく男の子は、もう二度と海面に上がることはできません。この男の子の夢の中にある海は、死者を捕える檻のように、今も夢の中で存在しています。
男の子はもうすぐ自由になれると思いながら、永遠に沈み続けるのでした。





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