ひととせ




     序



 里浦深春(さとうらみはる)の評価は人によって異なる。
 クラスメイトは、いつも静かに本を読んでいるだけの、大人しい少女だと言う。
 地味で目立ったところがまるでなく、部活にも入っていない。話す友達はいても、始終一緒にいるほど親しい友人はいないようだった。大人しすぎて友達を多く作れないのか、自分から壁を作っているのか、それも定かではない。
 里浦深春は眉尻の下がった、黒々と濡れた瞳が円らな少女である。
 ふんわりと肩にかかる黒いボブヘア。制服は濃紺のブレザータイプで、プリーツスカートはいつも膝が見え隠れする丈に合わせてある。
 深春は外見からよく優等生だと思われるが、別にそうではない。成績はいつも平均を少し上回る程度だし、運動音痴で何かと反応の鈍い少女でもある。スマートフォンを片手に友達とおしゃべりしているときもあるし、学校の帰りはあちこちに寄って買い食いしたりもしているときもある。生がつくほどの真面目ではない。
 深春はよく学校の図書室にいる。彼女は週に何度も図書室に訪れ、少しだけ本を読んでから本を数冊借りて帰っていく。そして本を返しに図書室を訪れては、その足でまた何かを借りていく。彼女をよく見かける図書委員と司書の先生からはすぐに顔を覚えられ、大人しい文学少女と思われていた。
 里浦深春の大体の評価はどこもそんなものである。
 だが、そんな里浦深春とは思えない、突然人が変わったような振る舞いをすることが、彼女には時折あった。
 里浦深春は、国語くらいしか飛び抜けたところがないかわりに理数系の科目が大の苦手で、たまに赤点ギリギリの点数を取る。それ以外はまったくの平均である。
 そのテストが、突然好成績になるときがある。
今まで彼女が手を出したことのない難問が解かれていたり、苦手なはずの数学や化学の点数がずば抜けて上がっていたりすることが稀にあった。
 それだけではない。里浦深春は大人しすぎてトロいとまでいわれるほど運動音痴だった。
マラソンはいつも最後尾、球技などでも危なっかしい動きでやっと同級生の動きについていく始末。そんな深春が運動部のような動きで突然シュートを決めたり短距離走で突然一位を取ったりすることがある。
クラスメイトはあまりの変貌ぶりにぽかんと口を開けて呆然とするのだが、ひとり深春だけは普段見せない自信に満ち溢れた笑みを浮かべていたりする。
 食べ物の趣味も、正反対のときがある。
 里浦深春は甘いものが大好きで、ドーナツ屋に寄ったり帰りにコンビニでお菓子を買って食べたりしている。揚げ物やこってりした肉料理が苦手で、お弁当にはいつも好物の卵焼きが入っている。
 そんな深春が突然苦手なはずの激辛カレーやフライドポテトを食べ、お弁当にハンバーグや唐揚げを入れてきては美味しそうに食べているときがあるのだ。
 苦手なものが得意になったり、好きなものが突然苦手になったり。
 性格が変わったように、深春の行動はころころ変わる。
 里浦深春は、時折そうして周囲を驚かせたりする。





     春



 里浦深春は読み終わった本を閉じて、表紙を見返した。読み終わったときの感動の余韻のせいか、春の花が咲く淡い色の表紙は、読み始める前よりずっと素敵な表紙に思えた。
 利用者のいない図書室の窓からは夕日が差し込んでいる。腕時計を確認すると、もう五時を回っていた。
「――あれ? もうこんな時間?」
 深春は独り言を呟きながら立ち上がり、本を元の場所に返した。鞄を肩にかけ、カウンターで新しく本を借りてから図書室を後にする。
 廊下にほとんど人の姿はない。学校の隅にある図書室に来る生徒はそう多くないのだ。それに生徒はもう帰っているか、部活で体育館やグラウンド、特別教室にいる。誰もいない廊下にも夕日が差し込んで、薄暗い廊下がオレンジ色に染まっていた。
『……随分遅くまで読んでたじゃねえか。日が暮れるぜ』
 誰もいない廊下に、少年の声が響いた。実際、廊下に少年の声は響いていない。声は深春の頭の中にしか聞こえないのだ。そんなことは露ほども気に留めず、深春は小声で言い返す。
「いいじゃない。面白かったんだもの」
『児童書なんて、高校生になってまで読むなよな』
「あ、今馬鹿にしたでしょ。児童書だからって、子供だけの読み物とは限らないのよ。大人になってから読んでも面白いものだってたくさんあるんだから」
 深春はひとり口を尖らせる。今廊下に誰もいなくてよかった。傍から見れば、独り言をずっと喋っている変な娘と思われることだろう。だが、少年の方はあまり人の多い場所では深春に話しかけないようにしている。声をかければ律儀な深春は必ず言葉を返すのだが、深春は人前で独り言を言って目立つことを避けている。それを知っているから、少年も話しかける場所には気をつけるようにしていた。

 里浦深春は生まれたときから、ひとつの身体にふたつの魂を宿していた。
 二重人格という言葉が分かりやすいのかもしれない。だが、それだけで片付けるには理解できない部分もある。頭の中で会話ができるのも、視界や記憶を共有できるのもそのひとつだ。
 もうひとりの人格は、深雪(みゆき)という名の少年である。
 母がつけたこの名前は、家族全員で「双子みたい」と言って気に入っているのだが、当の深雪は「女の子みたいだ」と何度も文句をつけている。確かに女の子みたいな名前だが、深春も深雪とおそろいの名前を気に入っていた。
 どうしてこんなことになったのか、今となっては誰も分からない。気がついたら深雪は深春の身体を使って動き、喋るようになった。両親は一度困惑したものの、「もうひとり子供ができたみたい」と笑って流してしまってから、里浦家には二人の子供がいることになった。
 深春は、何故か最初からもうひとつ魂が身体にくっついていることを何となくだが分かっていた。だから突然身体を乗っ取られたときも驚かなかったし、今でも深雪がいることに悩みはない。
 深雪は結構口が悪く、短気で喧嘩っ早いところがある。高校生になって少しは落ち着いたものの、小学生のときはやんちゃな盛りで、深春は結構困っていた。深春の身体でガキ大将に喧嘩を吹っかけて殴り合ったり、いたずらばかりしたりしていた。もちろんその行動は深春がしたこととして、男勝りのオトコオンナというレッテルを貼られていたものだ。深春は昔から本が好きな大人しい少女だったのだが、その不名誉なレッテルのせいで問題児扱いだった。
 中学に入るとさすがに少し大人しくなって、深春の不名誉は徐々に忘れられていった。それでも深雪がずっと大人しくしていられるわけもなく、たびたび身体を深春から借りては体育の授業を楽しんだり、気まぐれにテストの問題を解いたりしている。
 深春は文系科目が得意だが深雪は理数系の科目が得意で(それも深春より頭がいい)、深春と正反対で運動ができる。
 性格も得意分野も好みも、何もかも正反対のふたり。深春の身体にいる、もうひとりの自分で魂の片割れ。深春にとって深雪は、ずっと傍にいてくれる友達のような、弟のような存在だった。

「あ、まだあった。よかったー」
 深春は学校の最寄り駅にあるドーナツ屋の前を通りかかった。すっかり独り言を言う癖が定着しているが、深春自身はあまりそのことに気づいていない。
 甘いものが好きな深春は、よく学校の最寄り駅のドーナツ屋やクレープ屋に寄り道する。図書室にいて遅くなってしまったが、深春の好きなきなこ味のドーナツはまだ残っていた。人気商品で、たまにしか買えないのだ。深春はドーナツを買って、店先に立ったままドーナツにかぶりつく。きなこの上についた甘い黒蜜が口の中に広がった。
「しあわせ……」
 悦に入る深春の言葉を受け、溜息をつく深雪。
『よくそんな甘ったるいモン食えるよなあ……』
「だって好きなんだもの」
 深雪は甘いものが苦手で辛いものが好きだ。そこも深春と正反対である。深春はドーナツを食べ終えて満足げな息を吐くと、ようやく帰りの電車に乗り込んだ。帰る途中も鞄に入れた文庫本を開き、気がつけばあっという間に家の最寄り駅についてしまう。
 春とはいえ、外はすっかり暗くなっていた。まだ日暮れは早く、風は少しだけ冷たい。
「寒い……。上着着てくればよかったかな……」
『もう春だからいらないって朝言ってたじゃねえか』
「だって、朝はぽかぽかして気持ちよかったし……」
 少し早足で家へ向かう。白い街灯が道の先々をうっすらと照らしていた。街灯に照らされた桜並木が、花びらを散らしながら佇んでいる。人通りの少ない住宅街をひとりで歩くのは、少し怖い。深春のローファーがアスファルトを叩く音だけがする。
「ちょっと怖いな……」
『変質者とかには気をつけろよ』
「もう。急に怖いこと言わないでよ」
『ま、何かあっても俺が守ってやるけどな』
 ひとりでいるとき、こうして少し不安になるときがある。けれど深春には深雪がいる。ひとり分の身体の心の奥に、確かにもうひとりの体温を感じるのだ。
「ありがと。深雪」
 顔は見えないのに、深雪が笑ったような気がした。





     夏



「……あー、あっちー……」
 里浦深雪はそうひとりごち、ワイシャツの襟元をはためかせて温い風を服の中に送った。
 制服が夏物にはなったものの、押し寄せる熱気は蒸すようで、どんな格好をしても楽にはならない。おまけに席が窓際だから、昼休み  ちょうど正午に当たる時間帯の直射日光は、容赦なく深雪と机の上を熱している。
 深雪としては、暑いときは暑いなりの格好をしたい。透けるとか何とかいって中に着ているキャミソールは脱ぎたいし、スカートももう少し短くした方が絶対に涼しい。ソックスだってない方がましだ。
 もちろん学校でそんなことをすれば、今まで深春が作り上げてきた「里浦深春」像がクラスで崩れ落ちるだろう。昔深雪が好き勝手したとき、深春は深雪のかわりに先生に叱られたり、「オトコオンナ」と後ろ指を差されたりしていた。深春はそれを少し気にして、学校ではあまり深雪に身体の主導権を渡さないようになった。渡しても「大人しくしてて」と言うようにもなった。そのことについては深雪も少し気にしていて、もう学校や人前で変なことはすまいと誓っている。
 だがこの暑さは、そんな誓いさえ忘れてしまいたくなるほどだ。汗が気持ち悪い。脳の芯まで蒸し焼きになってしまいそうだ。こんなときにまで、深春は首に纏わりつくようなボブヘアを流したままにしている。首だって髪を上げれば少しは涼しくなるだろうに、深春のこだわりはよく分からない。
 たまにこうして身体を借りても、深雪にはやることがない。深春と深雪は性格が正反対なので、深雪が気ままに振る舞うことは難しいのだ。
 以前深春が体育の授業でこけそうになったとき、つい身体を乗っ取ってしまったときがあった。深春がそのまま怪我をするといけないと思って深雪が体育を受けると、つい楽しくて誰よりも早く走り、球技では誰よりも多く得点をとっていた。あのときは我ながらに素晴らしい成績だと思ったのだが、気がつくと周りが唖然とした顔をしていたのだった。
『……ね、深雪、暑かったら自販機とか行ったら? わたしのお財布使っていいから』
 ぐったりとした様子で席に落ち着いている深雪を見かねてか、深春が声をかけてきた。深雪は少し頭を上げ、小声で返す。
「マジ? それじゃせっかくだから何か買うよ」
 深雪は鞄の中から深春の財布を取り出し、廊下へ出た。昼休み中は学校内も賑やかで、そこかしこでお喋りする女子や校庭で遊んでいる男子を窓から見る。生徒がはしゃぐ声や笑う声が反響する廊下を通り抜けて、深雪は自販機のある場所まで歩く。

 深春は昼休みでも席や図書室で本をじっと読んでいるような娘である。普通に話す友達はいるようだが、必要以上に話しているところをあまり見たことがない。こうして笑い声の中をひとりで通り抜けると、まるで自分が透明人間にでもなったかのようだ。誰とも話さずひっそりと暮らしている。多分、深春はそれでも十分だと思っているのだろう。
 深春は昔から寂しがり屋のくせに、その穴をいつも深雪と一緒にいることで埋めていた。だから外に友達を作らなくても平気らしい。深雪もそうだった。お互いが傍にさえいれば、きっと深雪も深春も、誰とも親しくならなくても生きていける。
 小学生の頃は、深春も友達を作って外で遊ぶことがよくあった。深春も楽しそうに鬼ごっこや缶蹴りをしていたが、いくら他の子と遊んでも、深雪と遊ぶ時間も同じだけ取ろうとしていた。同じように鬼ごっこなんてできっこないのに、深春は深雪と遊ぼうと、お互いが隠したものを探す宝探しゲームなんかを考えてはよく一緒に遊んだ。
 でもそうやって遊ぶために、深春は他の友達と遊ぶ時間を減らしていた。そうやって遊びの誘いを断るたびに「つまらない!」「一人遊びしてる変な子」と文句を言われた。深雪はそれを深春の目を通して見ていたから『俺のことは気にしないで、遊びに行けよ』と言ったのだけれど、深春は頑としてきかなかった。
「わたしには深雪がいるからいいんだもん!」
 深春はそう言って、仲良くなった子と遊ぶことをしなくなった。思えばあのときからだ。深春が深雪以外とほとんど遊ばなくなったのは。

 深雪は人の少ない裏の自販機に向かった。旧校舎との渡り廊下の脇にある自販機で、何故こんなところにあるのかは謎である。他の生徒はもっと使い勝手のいい玄関脇の自販機や売店を利用するので、この自販機にはあまり人がいない。
 深雪はアイスコーヒーを買って一気に飲み干した。
「はあー、生き返るー」
 自販機のある場所はちょうど日陰になっているので、教室にいるより涼しく感じた。周囲に人もいないので思いきり羽を伸ばせる。
『……ごめんね、深雪。身体、貸しても何もさせてあげられなくて』
 深雪は空になった缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れた。
「そんなこと気にするなよ。この身体は深春のものなんだから」
『違うよ。深雪のものでもあるんだよ』
 違わない。この身体は深春のもので、深雪は魂だけ深春にくっついて生まれてきたに過ぎない。深雪がいなければ、深春は深雪に身体を渡してクラスメイトから悪口を言われることも、高校生になっても友達から遊びの誘いを断ったりしなくて済んだはずなのに。
『深雪? 変なこと考えてないよね?』
「何だよ、変なことって」
『わたし、深雪が傍にいてくれないとやだよ?』
「深春……」

『――ずっと一緒にいようね』

 今にも泣きだしそうな声で、深春はそう言う。
「……分かってるよ」
 夏の蜃気楼のように生まれてきた深雪。
 身体も顔もない、魂に名前をつけられて、この世に本当にいるのかも分からない存在。深雪には、確かに自分が生きているという証はない。心臓も脳も、何もかもが深春のもので自分のものなんて何ひとつない。深雪は思う。自分は、本当はこの世に存在しないのではないかと。全部深春の一部で、深春が生み出した想像上の人間なのではないかと。
 今ここでこうしているのも、真夏の陽炎が見せる夢なのかもしれないと。
『深雪、深雪ってば』
「……ん? 悪い、ぼーっとしてた」
『もう昼休み終わっちゃう。早く戻って』
「マジで?」
 そう言ったところで予鈴が鳴り始めた。深雪は急いで校舎の中へ戻り、人の減った廊下を思いきり走った。





     秋



「ね、深雪。一緒に出掛けない?」
『一緒って……、俺は深春が出掛ければ無条件で一緒に行くことになるだろ』
 確かに深春が出掛ければ、一緒の身体に入っている深雪だってついてくる。
「私としては、一緒にお買い物に行くって言ってほしいの」
『お前、たまにわけわかんねえよ……』
 そう言いながらも、深雪は『一緒に行ってやる』と言ってくれた。深春は久しぶりに制服以外の服を着て、町へ向かうことにした。
 深雪は、あまり服の趣味にはうるさくない。女の身体で、最初から女物の服を与えられて育ったからかもしれない。深雪は服装には口を出さない。珍しく口を挟むときというのが、
『……お前、それスカート短すぎるんじゃねえか?』
 と、まるで父か兄のような台詞を吐くときである。聞いた途端に深春が噴き出すと、深雪はやはり怒った。
『せっかく心配してやってるってのに! 笑ってんじゃねえ!』
「ごめん……」
 それでも笑って声が震えてしまった。そういうわけで、深春の服装には丈の短いものが少なかったりする。
 日曜日の街中には人が溢れていた。家族連れからカップル、そして私服の学生たちが道を埋め尽くして思い思いの方向へと歩いている。
 今日はどこへ行こう。せっかくだから、普段は行けない大きな本屋さんを覗いてみるのもいいかもしれない。それに、栗やさつまいもを使った秋限定スイーツを食べに喫茶店でのんびりしてもいい。最近お小遣いを貯めているからお店を梯子するのもありだ。
「迷うなあ……。どこ行こうかなあ……」
 学校に行くときとは違う、軽やかな足取りで街を歩く。
 深春は休日もひとりで過ごすことが多い。学校の友達は休みの日に集まったり放課後に集まったりしてアイスを食べたりカラオケに行ったりするらしい。深春も最初のうちは誘われたが、毎回断ってしまうのでいつしかそうした遊びに誘われることはほとんどなくなった。たくさんの友達と盛り上がるより、一人で好きなことをする方が気楽で落ち着けるし、深春はカラオケなどの場所があまり好きではない。それに何より、深雪と二人で過ごすことができる。
 深春にとって、深雪と二人でのんびりする時間は学校でとることはできない。家でもいいけれど、たまにはこうして外出もしたい。
 深雪に行先の意見を訊いても『好きにしろ』としか言わないので、深春は結局この辺りで一番大きな本屋へ向かった。学校の帰り道では、駅ナカの小さな本屋にしか寄れないので、こうして休みの日に大きな書店に行くことは結構楽しい時間だった。
 深春は静かな書店の中で書棚を順に見て回った。最近は図書室で本を読んでばかりだったのであまり新しく本を買っていない。好きな作家の児童書が出ているかもしれないと別の書棚へ向かった。背表紙を眺めながら、気になるタイトルの本を引っ張り出してはあらすじを確認していく。隣で同じように本を物色している男性もいた。
『………………』
 頭の中で、深雪が低く唸っているのを感じる。どうかしたのだろうか。隣にいた男性が深春の傍の本を手に取ろうとしたので、深春は思わず身を引いた。
「――!」
 その瞬間、深春は腕を掴まれた。咄嗟のことで悲鳴すら出てこない。
『――深春、変われ!』
 そう叫ぶや否や、身体の主導権を深雪に奪われた。深雪はそのまま掴まれた腕を強く振り払った。一瞬でその場から駆け出し、深雪は店内から逃げ出した。深雪は深春と違って運動神経がいい。あっという間に外に出た。
「……深春、大丈夫か?」
 小声で気遣ってくれる深雪の声で、深春はようやく安堵できた。
『うん……、ありがと、深雪』
 深雪はいつも、鈍い深春をこうやって助けてくれる。深春ひとりだったら、さっきの男性に一体何をされていたのだろう。考えることさえ怖かった。
「変だと思ったんだよ、あの男。本を見てるわりには深春のことチラチラ見てきやがる。案の定の変態だったってわけだ」
 あのとき深雪は妙に唸っていた。こんなことを考えていたなんて。
「べたべた触りやがって。蹴り飛ばしてやればよかったぜ」
『それはだめでしょ』
 深雪は適当に返事をしながら、身体を深春に返してくれた。まだ身体が少し震えている気がする。あんなことがあってはのんびり本屋を回る気もしない。深春は本屋を後にして、前から気になっていた喫茶店に行ってみることにした。
 道行きのウィンドウから小さな本屋の店内がちらと見えた。ちょうど赤本や参考書が見えて、休日なのに少し気が落ち込む。
「……来年には受験生になっちゃうなあ……」
 勉強がそこまで得意ではない深春には、来年の春から始まる受験が些か気鬱だった。まだ将来どうしたいかなんて考えられないし、どうしたいかも分からない。それなのに、道は決めなければならない。
「……深雪は将来どうしたいかとか、あるの?」
『なーに言ってんだよ。俺は深春の進む道にくっついていくだけだぜ』
「そうしたら、深雪の進みたい道には行けないじゃない」
『そんなことは……』
「できたら一緒に行きたい大学とかお仕事を選べるといいね」
『…………ああ』
 深雪は珍しく黙ってしまった。何か考え事をするとき、よく深雪は黙る。そういうときは何を訊いても答えてくれないので、深春も黙ることにした。
 秋限定のスイーツまであと少し。深春は浮足立ちそうになる足取りを抑えながら、歩を進めた。





     冬



 学校は今冬休み中だった。
家にいる時間が長くなると、深雪ものびのびと身体を使える。
 里浦一家はみんな深雪の存在を知っているから、独り言をしても気にならないし、深雪も人目を気にせず深春の身体を好きに使える。深春も、休みのときくらいは身体を使わせてあげようと身体の主導権を渡してくれることが多い。
 深雪は和室のこたつの中で寝転がりながら、深春の代わりに数学の課題を解いていた。長期休暇の宿題は、小学生の頃から分担してやってきた。テストのときに交代でやるとずるみたいになるが、宿題は手分けした方が早く終わっていい。それに深雪は、勉強がそんなに嫌いではない。深春の心の内でじっとしていることが多いため、自分で頭を使ったり身体を動かしたりするのは結構楽しいのだ。
 最後の問題を解き終えると、床に広げていた教科書とノートを閉じた。
「深春ー、終わったぞー」
『ありがと、深雪。助かったー』
 成績が平均で、特に理数系が苦手な深春は全科目の宿題を解くのも一苦労なのだ。
『……ね、英語もやってくれたりとかは……』
「却下。国社英はお前の分担だろ」
『むう。こっちの方がひと科目多いのに……』
 こたつから這い出し、床に散乱した教科書やノートを片付けにかかる。
 ちょうどそこへ、洗濯物を干し終わったらしい母が和室にいる深雪を見かけて足を止めた。
「深雪、宿題お疲れ様。今あったかいお茶でも淹れるわね」
「飲む飲む。さんきゅー」
 深雪は気軽に母に応じる。外で自分の言葉を使って話すことはほとんどない。だから家で自分らしくいられる時間は、深雪にとって貴重だった。
 だが深春を恨んだことなど、一度もない。元からこの身体は深春のもので、自分の魂は身体がないから深春にくっついてきた。ここにあるもの全部深春のものだ。深雪は深春が与えられたものを少しばかり分けてもらって、やっと生活しているのだ。
 深春は深雪を本当の兄弟のように思って一緒に過ごしてくれる。
 だが少し大人になってから、深雪はこのままでいいのかと考え始めていた。
 ずっと一緒に暮らしてきたから、深春は当然のように深雪を気にかけ、深雪との時間を作ろうとする。その場に深雪が、身体を持っているかのように振る舞ってくれる。両親もそうで、深雪の好きなものを作ってくれたり、ほしいものを買ってくれたりする。お小遣いも、深春と深雪の分をそれぞれくれる。
 だが、いつまでもこのままでいられるわけがないと深雪は思っている。
深春はまだ気にしていないが、深雪はこれから先どうなっていくのか察しがついていた。
 例えば、少し前に大学について話したときもそうだった。深春は深雪と一緒に行ける大学がいいと言っていた。けれど、深雪はそれが無理だと覚った。深春は大人になる。身も心も成長していく。この身体は深春のものでこれは深春の人生だ。いつまでも深雪がくっついていって、一緒に歩むことはできない。
 深春だってこれから人並みに恋をしたりするだろう。行きたい大学を選んだり、やりたい仕事に就いたり、結婚したりするだろう。そんなとき、いつまでも深雪がいては深春の邪魔になる。普通の双子が別々の道を歩んだりするように、深春と深雪も、きっといつかは別れるときがくる。いいや、別れなければならないのだ。
 深雪は深春の魂の片割れ。深春の中の、何かがきっかけで一緒に生まれた付属物。いつまでも深春の中に居座って、深春の人生の邪魔をするわけにはいかない。
(でも俺はまだ……)
(消えてなくなりたいわけじゃないんだ)
 深雪はこたつ布団にくるまりながら、テーブルの上に顎を乗せた。
『……深雪、どうかした?』
 深春は普段はぼんやりしているのに、たまに妙に鋭くなる。
「ん、なんでもねえよ」
 和室の窓の向こうでは、ぽつぽつと雪が降っている。
 深雪。
 今思えば、これほど自分にぴったりの名前があるだろうか。
 深春は季節を  春を重ねて大人になっていく。深春は深春の季節を生きていく。けれど、雪は降って、溶けてしまえばそれまでだ。季節を重ねることは叶わない。いつかは溶けて、何もなかったかのように消えてしまう。いつかきっと、いなくなるべきだ。
 ――ずっと一緒にいようね。
 以前深春はそんなことを言った。その言葉にどこまで縋っていいのか深雪には分からない。信じれば辛い嘘になるだろう。だが、それでも嘘だと思うだけなのも辛い。
 深春は双子の妹のような存在だ。何をするにもずっと一緒だった。深雪にとって深春は、身体を借りていること以上に大きな存在になっている。優しくておっとりした深春を、深雪はずっと守ってやりたい。深春の傍についていて、深春が困ったら何でも助けてやる。いつまでもずっと。
 深春がくれる優しい言葉にかこつけて、深雪はしぶとく生き残ろうとしている。よくないことだと分かっていても、まだ深雪は、深春と別れたくはなかった。
 やがて、お盆にお茶を載せて母がやってくる。
「まあ、こんなに雪が降るのも珍しいわねえ」
「そうかもなー」
 こたつ机の上に置かれたお茶を、深雪はさっそく啜る。
「宿題、もう終わりそうなの?」
「理数系はもう終わってる。あと残ってるのは深春だけなんだぜ」
『むう。自分の方が勉強得意だからって……』
 深春が頭の奥で深雪を睨むが、深雪は得意げに笑ったままお茶をもう一口啜った。
 外は白い雪がぽつぽつと降っていた。当たり前のように過ぎていく一年の中で、春になれば消える雪のことを、深雪は思った。





     終



 また、春がやってくる。深春の一番好きな季節が。
 何度も何度も、深雪と一緒に季節を過ごしてきた。生まれてきたときからずっと一緒で、そしてこれからもずっと一緒の魂の片割れ。
 深春と深雪は、身体はひとつしかないもうひとりの自分で、双子のきょうだいだった。
 ――ずっと一緒にいようね。
 そう言っておかなければ、何だか深雪が離れてしまうような気がして、深春はそんな言葉で深雪を縛ることしかできない。ずっと一緒にいるのだから、深雪が珍しく悩んでいることくらい分かる。そしてそれが、自分のことであることも。
 深春は今まで、片時も離れず深雪と一緒に生きてきた。だから深雪が何を考えていても、深春は深雪と生きていたいと思っている。今までだってやってこれたのだから、これからだって一緒に生きていくことはできるはずだ。ずっと、二人で繋げない手を繋いで歩いていく。何度も春を重ねながら。

 ――ずっと一緒にいようね。
 いつか深春が深雪に言った嘘に縋りながら、深雪は生きている。
 春が訪れるたびに思う。今年一年、自分はまだ深春と一緒に生きていていいのだろうか。もう次の春には、自分は消えるべきなのではないだろうかと。
 桜の花びらが降ってくる。春の日差しとともに頭上に降り注ぐ桜を見上げて、深春が言う。
「見て、深雪。今年も桜がきれい」
『……そうだな』
 深春はきっと、桜を見上げて笑っている。だが深雪には、深春の顔が見えない。鏡でしか深春の顔を見たことがない。それでもきっと、今散ってくる桜の花びらを見上げる深春は、誰よりも輝いていてきれいなのだろう。
『多分、きれいだな』
 深春は通学路を歩きながら言う。
「……今年も、ずっと一緒にいようね。これから先も、ずっとよ……」
 深雪は、深春の頭の中で目を見開いた。
 深春も気付いてるんだ。
 俺達が、いつまでも一緒にいられるわけじゃないってことを。
 それでも彼女は言うのだ。今年もずっと一緒に、と。
 深雪は心の中で目を閉じる。頭の中では、目を閉じることはできない。深春の視界が、そのまま深雪の頭の中に流れ込んでくる。
『今年も、一緒にな……』
「うん……」
 そうして二人は心の中だけで、現実では絶対に繋げない手を繋いだ。
(もう一年だけ)
 そう祈りを込めて、空を見上げる。
(いや、できるだけ長く)
 例え深春にとっていつか負担になると分かっていても。
(でもできたら、さいごまで一緒に)
 そうして、また新しい一年を重ねていく。
 また春夏秋冬(ひととせ)。
 そしてもう一年(ひととせ)。

 二人で、ひととせを廻っていく。





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